【涙腺崩壊】逸見政孝さんの癌告白から酒絶ち・ゴルフ絶ちをした武。どうしても弔辞を読むことができなかった理由を知ったら、今でも泣けてくる・・・

1993年12月25日土曜日12時47分、クリスマスの昼下がり、ニュースキャスター・司会者として国民的人気を博し多くの視聴者に愛されたフリーアナウンサー逸見政孝さんが亡くなった。48歳だった。

逸見さんの葬儀告別式が営まれた1993年12月27日、逸見さんが初代キャスターを務めたフジテレビ系の夕方ニュース番組「FNNスーパータイム」では、露木茂・安藤優子の両メインキャスターが葬儀の模様をリポートも交えて伝えるとともに、「スーパータイム」キャスター時代の逸見さんの活躍をVTRで振り返った。

VTR明け、生放送のスタジオで安藤キャスターが嗚咽をもらす姿は何とも言えなかった。そして、その横に立つ露木キャスターのそのときのコメントもまた忘れられない。

我々の仕事というのは、こうして、亡くなった後にも元気なころの映像が残ってしまう、ということが、逆に言えば残酷なのかもしれません。

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亡くなった年の9月に記者会見で自らがんであることを公表し、休業・闘病生活に入ってから110日。

その間も10月ころまでは「たけし・逸見の平成教育委員会」など事前収録分の出演が続いていたし、その年のはじめに“十二指腸潰瘍の手術”で休業したものの、夏には長時間特別番組「FNSの日 平成教育テレビ」で23時間におよぶ生放送の総合司会を務めるほどだった。

  

そんな逸見さんと番組共演者という関係を超えて親友どうしの間柄だった、ビートたけし。

たけしは逸見家との交流も深い。

逸見さんとは「ひょうきん族」で共演したり、「オールナイトニッポン」で逸見さんのことを話しにしたりするなど、関係があったが、「平成教育委員会」で共演したのをきっかけに交友が深くなっていく。

お笑いBIG3シリーズにおける活躍はもちろん、数学を得意としたたけしと国語・社会は得意であったが数学を苦手としていた逸見、巨人ファンのたけしと阪神ファンの逸見といったように対照的であるがゆえに、お互いにないものを補い合えると認めあう仲だった。

 
 

2人の関係には自信があるし、世間に向かって「私も心配しています」という必要はない。

たけしは、逸見さんががん公表で闘病生活に入ってから、コメントを求めるマスコミに対し、こう言い放った。

逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。また、逸見の病院での見舞いに訪れる事も、逸見家から許可され、たけしは逸見の変わり果てた姿に衝撃を受け、その日から告別式の日まで、仕事をすべてキャンセルしている。

「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語り、告別式の間は終始、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。

  
本来であれば、たけしが逸見さんへの弔辞を読む予定だった。

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しかし、逸見さんの葬儀告別式で、終始うなだれたようすで子供のように泣きじゃくっていたたけしは、弔辞を読むことがどうしてもできなかったそうだ。

たけしが泣き崩れてしまっていたので、山城新伍が「これを読むと余計辛いだろうから代わりに自分が読むよ」と言って代わったそうです。

 

この動画を見た視聴者のコメント(※一部)

この人を知らない世代が成人してるんだよな。信じられないわ…

0歳の頃だった俺が人の死を初めて実感したのが、身内や親戚や友達や知り合いでもなく TVでいつも見ていたこの逸見さんでした。
平成教育委員会での逸見さんの存在感はクソガキの俺でも感じていたようで、このニュースが終わってからビートたけしの隣が中井美穂になった時に初めて「あ・・・イツミマサタカさんはしんじゃったんだ」と実感したと共に、この世から人が死ぬというのはどういうことになるかを理解した覚えがしっかりあります。

逸見さんが亡くなって23年が経とうとしています。逸見さんは今のテレビ業界の状況をどう思っているんでしょうね?もしかしたら喝をいれてるかもしれないな。

 
 

逸見さん没後、1997年9月まで続いた「平成教育委員会」レギュラー放送の最終回

エンディングでたけしさんは、

あの、なんか、すいませんでした。

ゴメン・・・

いろいろみんなありがとう・・・・・・なんてね!!

泣いているふりであったかのようにおどけたたけし。

しかし声を詰まらせながら話したその目は、心なしか赤い。

そして、助手役の小島奈津子アナウンサーから「長いようで短かったですか、6年間は?」と聞かれると、たけしさんは俯いたまま声を詰まらせながら、

やっぱり、いろいろね、、、いろんな人のことをこう、、、ありがとう。

そう話すたけしさんは、泣いているふりなどではなく、明らかに本当に泣いていた。

  

番組の最後に流れたのは、1991年10月19日放送の第1回での「放課後」コーナー。

生徒が帰り、たけしと逸見さんが2人だけで放送を振り返るトーク。
そのラストシーンは、談笑した2人が席を立ち、肩を組んで教室をあとにする背中で終わるのである。

バラエティとは思えない、切なく悲しいエンディングでした。。。


 

たけしは逸見さん没後も交流が続いているそうで、逸見の長男・太郎は、1998年の映画HANA-BIで俳優デビューをしている。

太郎さんデビュー時には、逸見さんの希望を強く汲んで、本人、家族を説得して、たけしの意見を通したという。

 
 

逸見の長男・太郎は、1998年の映画HANA-BIで俳優デビューをしている。

父の死後、留学を取りやめてデビューすることを強く望み、周囲に力添えを貰えるよう相談していた。

しかしたけしは猛反対し、逸見の希望通り留学を全うし卒業することを勧めた。太郎はその意見に従いエマーソン大学を卒業してから帰国。

改めて芸能界に臨んだという。

また、芸名を“TARO”にしようと考え、たけしに告げた際に「犬じゃねぇんだから」と一蹴。

現在まで本名の逸見太郎で活動している。

 
 

逸見政孝 ガン告白会見の裏側

  

その後もたけしやたけし軍団と草野球をするなど、交流が続いているという。

健在ならば今年70歳(平成27年)、これだけ忘れられないアナウンサーはほかにいない。誠実な真面目なかつ、皆に愛される。20年たっても色あせない方です。逸見さんありがとうございました!

コメントを読んでいたら相当すごい人だったんだね。
亡くなられたのはわたしのうまれる7年前だからわかりませんが、、
今のテレビが変わるくらいの方だったんですね。
生きてて欲しかったな

こういうクソがつくくらい真面目な人がバラエティーでおちゃらけるギャップが凄く面白かったです。アナウンサーでここまで記憶に残っている人は未だに居ない。若くしてお亡くなりになられたのは、今になってもテレビ界にとって大きな痛手ではないでしょうか。
自分にとっては理想の大人像です。

逸見さんは退職されるまでフジテレビの看板アナだったね。また、フリーになっても活躍し続けたよね~。
亡くなったのは1993(平成5)年のクリスマスの日だった。確か、入院していたのは古巣だった当時のフジテレビ本社に隣接していた東京女子医大病院だったと思うが…
事実なら、私の勝手な見解だが、自分の元の職場を見ながら(見える病室だったかどうかもわかるよしはないが)仕事への復帰に対する意欲を沸き立たせていたのかもしれない。
それだけに逸見さんの死は無情だった。
逸見さんが今のフジテレビを天国で見ていたら、あるいは今の日本の放送業界を見ていたら何と言うだろうか!?悲しんでいるのかもしれない。
フジテレビは逸見さんが亡くなってから3年2ヶ月強後に台場に移転したので逸見さんが今のフジテレビの社屋を知るよしもないのは言うまでもない。

今の若い世代は知らないだろうけどホントに凄かった。日本テレビ界の宝だと思う
たけしにも勝るとも劣らない、そんな人

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